nananashinaの日記

禁欲・禁酒で人生を立て直す

禁欲・禁酒6日目

宇宙飛行士になるための訓練の一つに、無音・無刺激・無感覚を人工的に作り出した部屋にじっと我慢して居続ける、というものがある。

(今は禁止されている、という情報もある)

 

空調の音も、時計の音もしない。

壁、天井、床は均一な白色であり、なんの情報もない。

時間の経過を表すものは何もない。

自分がただいるだけ。

 

この部屋では、どんなに屈強な男も心が強い女も、その『無』に耐えられないのだという。

 

 

僕はその『無』に興味をもった。

その感覚を味わってみたいと思った。

 

しかしながら、『何の刺激がない空間』というのは単純そうに見えて、実際にはなかなか実現が難しい。

例えば音楽のレコーディングスタジオは吸音材に包まれていて静かだが、利用するのはコストがかかる。

 

そこで、音の遮断は空間ではなく自分自身にのみ適用することにした。

すなわち耳栓である。

100円ショップの耳栓はあまり効果がないが、amazonで買った700円の耳栓は効いた。

見た目は似ているが、遮音効果の差はかなり大きい。

しかし、それでも完璧な遮音にはならない。微かに外界の音が聞こえる。

そこで、さらにヘッドホンのような形の遮音器をつけることにした。

 

……すん。

 

と、外界の音が消える。

指を鳴らすが、何の音も聞こえない。

軽く手を叩くくらいでは何も聞こえない。

 

そのかわり、呼吸と、心臓の音、耳に血が流れる音が大きく聞こえる。

 

実はこれがうるさい。

外界の音は消えた。でも、それと同じ量の、自分の音が鮮明に聞こえる。

耳に入ってくる音の総量は変わらない気がする。

いままでわずかに聞こえていた、自分という名の通底音が響き渡る。

 

それと同時に、ものすごい不安に襲われる。

 

もしも、今、火事になったら?

僕はその音に気がつかない。

 

「ばか! 早く逃げろ! 死にたいのか!?」

 

と言われても気づかない。

まさか、よりによってこんなアホな実験をしてるときに火事や強盗闖入はないと思うが、そのまさかが不安になって僕を襲う。

 

心臓の動悸が激しくなる。

怖い。

 

僕はきょろきょろする。何度も身の回りの安全を気にする。

窓の外を確認する。自分の後ろを何度も振り返る。

 

それがまさしく、異常な精神状態を表すのだということに気づかない。

 

 

続いては視覚である。

これは簡単である。アイマスクを使えば良い。

ただ、アイマスクも完全な遮光にはならない。

そこで、アイマスクをした上で、顔にぐるぐるとバスタオルを巻く。

 

音を遮断した状態で、光も遮断する。

 

そしてそのまま坐禅を組み、身体の動きを止める。

 

この状態で何分耐えられるか。

 

そう、僕は宇宙飛行士になるべくチャレンジする。

 

とにかく物理的に頭が重いが我慢する。

 

深く、深く、深呼吸をする。

 

 

迫り来る不安。疑心暗鬼。

とにかく不安を感じる。

身の危険を感じる。

もしも、本当に今、泥棒が入ってきても何も気づかない。

ポケットの中の財布を手探りで確認してしまう。

いや、もしも本当に強盗が入ってきたら何をやっても無駄だ。

 

今、目の前にピストルが突きつけられていたらどうする?

日本刀を持った、血に飢えた変質者が部屋に入ってきたら?

 

もちろん、現実的にはありえない妄想が、それを否定する材料がないがゆえに肥大する。

エスカレートする。

たぶん、今、突然、肩を叩かれたら、絶叫するだろう。

 

危険だ。

危険な状態にいるのだ。

精神的にじゃなくて物理的に。

ここは安全が保障されてるNASAの訓練室ではない。

危ないのだ。とにかく危ない。

 

僕は実験を中止しようとする。

と同時に、これが、これこそが僕の弱さなのだと知ってしまう。

 

僕は僕の作り出した妄想に負ける。

いつもそうだった。妄想は妄想を呼び、どんどん大きくなる。

仕事でも人間関係でも。自分自身を持ち上げたり貶したり。

勝手に作り出した妄想が僕をいつも負けさせる。

妄想に負けることを望んでもいる。そのほうが楽だから。

 

僕はダメなやつなんだ。

 

殺せ。

 

僕は僕の身体の音を聞きながら、床に寝転がる。

光も音も遮断され、僕は何もすることができない。

触感はあるが、なんとも心許ない。

触っていることを目で見ていて音が鳴る、それがワンセットで感覚なのだろう。

 

無感覚というのは、死を感じさせる。

というか、正直言えば、殺されるという意味での死を感じる。

人間はやっぱり動物なのだ。

行き着くところは、生きるか死ぬかの感覚なのだ。

そして、感覚を失えば、それは『殺される』という恐怖につながる。

 

殺される側に僕はいる。

 

NASAの無感覚室。

その圧倒的な静けさの中で感じるのは、やっぱり、『殺される』というイメージなのではないか。

 

地球から離れた宇宙空間。

小さなカプセルの中にいて、聞こえるのはコンピューターの息使い。

残りの酸素は有限。

すぐには無くなりはしないが、もしかしたらセンサーが間違えてることだってある。

次の瞬間に宇宙を彷徨うデブリがこのカプセルを貫くことだってありえる。

遠くの星の崩壊によって放たれた強烈な放射線が、あっという間に僕を貫いて、コンマ秒単位で絶命するかもしれない。

 

宇宙空間は僕を簡単に殺す。

それが怖いなら、宇宙飛行士になんかなれないんだ。

死ぬのが怖いなら、宇宙になんか行かないほうがいい。

 

地球で、地味にサラリーマンをやって、上司に怒られて、無理難題の仕事に手をつけて、失敗して、みんなに迷惑をかけて、他部署に謝りにいって、やっつけられ会議を開催して、謝って、残業して、休出して……

 

それでも、宇宙空間よりもましだ。

こうやって、生きていられる。

 

なんのために、宇宙に行くのか。

死ぬために行くのか。

殺されるために行くのか。

 

生きたい。

 

生きて、ささやかでもいいから、小さな幸せを感じて、生きていきたい。

多くは望まない。宇宙空間に比べれば、何もかもがありがたい。

 

全てがありがたい。

 

何もいらない。

地球にいればいい。

地球にいられることが、幸せなんだ。

 

実験の終わり

光が戻る。

音が戻る。

 

いつもの日常が広がっている。

時計を見る。

 

16分。

 

「おい、見たかミサ。こいつ、とんだチキン野郎だぜ」

 

同じ宇宙飛行訓練士のマイクが手を叩いて笑う。

情けないわねえ、とオペレータのミサが冷たく言い、

訓練受けてない私だって30分は我慢できたわよ、と舌を出してみせる。

 

僕は何も言い返さず、壁に寄りかかって、深く息を吐く。

 

僕には宇宙飛行士は向いていないのかもしれない。

僕はまだ、地球に強い未練があるのかもしれない。

と、いうのは言い訳で、本当に僕はただのチキン野郎なのかもしれない。

 

「見本を見せてやる。よく見てろよ」

 

マイクが右腕を高く掲げ、意気揚々と無感覚室へと入っていく。

僕はそれをぼんやりと見ている。

 

禁欲・禁酒6日目。

 

ここにもまた『無』があり、

その『無』が圧倒的な質量を持って僕を押しつぶそうとしている。