禁欲・禁酒4日目
禁欲ブログを立ち上げるという心理的効果
勝手な思い込みに過ぎないが、ブログを作ったというだけで作家気分である。
作家だから偉い、作家先生と呼ばれたい、そういうこととは別に、たかがネットの隅で生まれた小さな埃のようなブログであっても、何かを作っている、白紙を埋めているというのは妙な高揚感がある。
このブログを立ち上げなかったら今日は普通に飲んでいた。
仕事のストレスが半端なく、飲むしか他ないような日だった。
でも、スーパーを歩き、酒が置いてある一角に来て、私は自分自身に、
「おいおい、もう嘘をつくんか」
と毒吐くことができた。
「悔しないんか」
むろん、まだ心に余裕があった。
4日目でしかなく、まだ身体の中に、あの炎天下の砂漠のような焼けるような欲望は生まれていなかった。
安くなった惣菜やパンを買って私はスーパーを後にした。
車の中で、過去の禁欲・禁酒の失敗パターンを思い出した。
私は結構、同じことを何度もやっている。
禁欲を決意→失敗→禁欲を決意→諦める→禁欲を決意……
その繰り返される愚行の中で、その失敗パターンも見えてきている。
第1位:暇だから酒を飲む。暇だから欲望に溺れる。
第2位:長期の禁欲は逆に健康に悪いのではないかと思い、欲望に溺れる。
第3位:自暴自棄になり、自傷行為のようにして酒を飲む。欲望に溺れる。
第1位は結構意外なのではないかと思う。
自分でも意外だった。
え?
暇だから?
そんなに暇なのか?
そんなに暇じゃないんだけど、という思いがある。
だけれど、休日のどこかで、暇な時間はわずかでも確実に存在する。
いや、休日というのは、暇を作るためにあるはずなのだ、本来。
13時から17時まで、予定がない。
外へ出るのも億劫だ。特に行きたいところもないし、天気も悪いし。
部屋で寝転がる。見たい本も、テレビもない。
もちろん、仕事のことなど考えたくない。
忙しい平日からすれば、羨ましい限りのその空白の時間が、実は真綿で締めつけられるような苦しみを感じさせる。
ーーそういう時間は、大事ですよ。ヨガとか坐禅したらどうですか?
ーーぼんやりと将来のことなど考えるのもいいのではないですか?
ーーなにか熱中できる趣味を探したらどうですか?
そういうありがたいお言葉は承知である。
承知なのだが、それでも何もしたくない、灰色な空白な時間が存在する。
漫画を書く、文章を書く、自分磨きをする、瞑想する……そういうことをしたいと思えない、自堕落で妙に乾いた空気の、焦燥感に満ちた、時間。
それを、暇な時間、と呼ぶのである。
そういう時間に、ポルノ(以下、p)とアルコール(以下、a)がやってくる。
弱い心がp,aを呼び寄せる。喉が急激に乾き始める。上着を羽織り、靴下を履く。
コンビニに向かう。まだ昼食時間だ。
弁当を買う人、パンを買う人の後ろに並び、aを3種類買う。
年齢確認を押してください。
じゃあ、nanacoで。
新しい残高になります。ずしりと重い袋を受け取る。
なんだって? 禁酒? またやり直せばいい。人生のように。
禁欲? 大丈夫。見るだけだから。見るだけ。そう、見るだけ……
まだ、その恐怖の暇な時間はやってきていない。
だけれど、それは確実にやってくる。
このブログはその『暇な時間』の壁を越えさせてくれるだろうか?
自分自身との会話
「さっきから聞いてれば、お前は何? アホなのか?
暇な時間が怖い? 休日、家にいるとp,aに溺れるストーリーしか浮かばない?
アホか。
原因がわかってるなら、対策なんていくらでもやりようがあるだろ。
一人でいると快楽に溺れるのがわかってるなら、外へ出ればいいだろ」
休日、頑張って外へ出続けたことは過去にありました。
図書館や喫茶店巡りとか。確かに有意義でした。
でも、続きませんよね。瞬発的な効果はある。でも、恒久対策ではない。
だいたい、休日は休みたいものです。
恐怖の『暇な時間』と言いつつ、その『暇な時間』を求めてもいるのです。
「面倒臭い奴だな。じゃあ、家の中で大人しくしてなさい」
基本、大人しくしていたいと思います。
ところが、いざ、暇になると、妙に心がざわめくのです。
何かをしなければ。勿体無いのではないか。
本来、無限の選択肢がそこで広がります。
でも、辛い、苦しい、面倒、お金が掛かる、仕事みたいで嫌、などと選択肢を減らしていくと、下記の条件を満たす行動のみが残ります。
・お金を使わなくてもいい。
・頭を使わなくてもいい。
・無条件で気持ちいい。
・努力しなくていい。
・寝る、というのは時間が勿体無いので却下。
そこで、満を持して、にっこりと私を迎えてくれるp,a。
ポンっと気前のいい音でシャンパンの栓が開けられる。
一度身体を預けたら、二度と起き上がれない、人間をダメにする、柔らかな低反発な彼女が私の横に座る。
砂漠の真ん中にいる。
砂漠の真ん中にいて、あての無い歩みを続けている。
もう何日も水を飲んでない。
目は霞み、砂埃が口の中に入り込み、強烈な太陽の日差しが肌に痛みを感じさせる。
歩かなければ砂漠から逃れられ無い。
でも正直、どこへ向かって歩けばいいのか、わかっていない。
腕は骨と筋だけになっている。自分の影が、日に日に細くやつれていく。
水が飲みたい。
水があれば、後は何もいらない。
口に入った砂を吐き出す唾液すら出てこない。
おそらく、映画や漫画みたいな大逆転は起こらない。
このまま地味に力尽き、地味に倒れ、動かなくなり、地味に死ぬのだ。
カメラのフレームに写っているわけでもない。
ありがちな風景として地味に死ぬ。オチも何もない。
東京駅に紛れ込んだ蟻と同じく、運が悪かったとしか言いようがない。
そこに物語も救いもなく、比喩も寓意もなく、ただ単に死ぬ。
ただ水が。
水が飲みたい。
晩年の祖父は糖尿病だった。心臓に水が溜まるという病気も併発していた。
祖父はひどく喉が渇いていた。水をくれ、と何度も言った。
でも、医者からは水分を制限されていた。飲めば、それが心臓に溜まる。
祖父が水を飲まないように、家族は見張っていた。
蛇口を開かせない。外出は常に同伴。風呂の水すら飲ませないようにした。
それは虐待のような光景だった。恐ろしかった。祖父は一気に老け込んだ。
祖父は水が飲みたくてしょうがなかった。
砂漠の中を祖父だけが歩いていた。その辛さを私たちは知らなかった。
いつしか、祖父は仏壇の部屋で過ごすようになった。
そして、その日から、仏壇に活ける花がよく枯れるようになった。
言わずもがな、祖父は花瓶の水を飲んでいた。
私はその姿を見ていた。
祖父の糖尿病と心臓の病は、酒の毒から始まっていた。
若い頃の祖父が一升瓶を抱えながら一日中飲んでいるのを私は見ていた。
花瓶の水を啜る祖父が、若い頃の祖父と重なって見えた。
そして、最近、鏡に映る私は、若い頃の祖父によく似てきている。